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語らう。To Communicate

Junya Kasuga
  • 羽田空港着
  • 羽田空港発
  • 島根県出雲空港到着
  • 父親と再会
  • 北山出雲弥山登山開始
  • 山頂に到着
  • 下山
  • JR出雲駅前の居酒屋で軽食
  • 父親とお別れ
  • 寝台車・出雲サンライズに乗車↓
  • 東京駅到着
  • 帰宅

Place

@島根県出雲市
北山出雲 弥山
N 35°23' E 132°40'

Profile

春日潤也
モデル・介護士
1982年島根県生まれ。
メンズ誌をはじめ、カタログ、広告などで
モデルとして活躍。
また2013年に介護士の資格を取得する。

普通にひとりの
男としてかっこいいなって

18歳のころ、島根県出雲市から上京してきた春日潤也。東京では、モデルや俳優として数々のメンズファッション誌やCMなどで活躍するほか、最近は、介護の資格を2年かけて取得した。そんな春日潤也の“36時間”は、地元・出雲市にいる父親と話をすること。そして場所は、実家から車で10分ほどの場所にある北山出雲・弥山の山頂。父との思い出の場所だ。

「小学生のときに、オヤジと一緒に登ったんです。その山にもう一度一緒に登ってみたい。っていうのも、中学生ぐらいからのときからオヤジとの間に微妙な距離感が生まれはじめて、それ以来ちゃんと話しをしたことがなかったんです」

春日は今年父親になった。目を離すことのできないほど著しい娘の成長と同時に、様々な不安が生まれていた。そのたびに、「俺のオヤジはどうだったんだろう?」と思うようになったのである。

出雲市に到着すると、レンタカーを借り、実家に向かう。のどかな田園風景は変わらないが、思い出のお店がなくなっていたり、新しい道路ができていたりと、刻一刻と変わっていく故郷の姿に春日は驚いていた。中学生からはじめたスケートボードの原点という母校などに寄り道をしていると、実家に到着。父親と再会したのは正午だった。

「じゅんや君、久しぶりだね! 弥山に登りたいんだって? 急だったからびっくりしたよ」そう言って車に乗り込んだ。最初は、いろいろな会話が飛び交うものの、10分ほど経つと、ぎこちない空気が漂う車内に変わっていた。

しかし、そんなぎこちなさも、山を登りはじめると一変する。「じゅんや、ここ危ないから気をつけなよ」とはお父さん。庭師であるお父さんは、春日に弥山に生息するミツマタというお札の原料になる植物のことや毒のある植物のことを教えていた。春日が小学生のときに父親と一緒に山登りをしている姿が容易に想像できた。

しかし、温暖化によってだろうか、20年前に登ったその山とは異なっていた。かつて高々とそびえ立っていた松の木々は枯れ、歯ブラシのようになっている。また青々としたコケが生えていた山道は、太陽の日が直射。ドライな道に何度も足をとられつつ、山頂を目指した。

今回の登山は、
本当の意味で一緒に登った気がした

困難な道のりは約2時間ほど続いた。登頂するとそこには絶景が待っていた。西には出雲大社、東には出雲ドーム、そして正面には春日の母校が見える。出雲平野を一望できるこの景観を前に、親父との会話が始まった。

春日と父親はコーヒーを飲みながら、約1時間近く話をした。新しくできた家族のこと、故郷へ戻る時期について、そして親戚のこと、春日が中学を卒業する際に書いた作文のこと、さらには母親のこと。まだまだ話すことはたくさんあったようだが、帰りの電車の時間が迫っていた。登りの疲労によって、ほぼ全身に乳酸がたまっている状態ながらも、滑落する危険性と隣合わせでゆっくりと下山。登りの時とは違い、下山は春日が父親の先に歩き、リードする。「お父さん大丈夫? ここ気をつけてね」、「一回ここで休憩しようか」などと声をかけながら。

約1時間で下山を終えたあと、春日の友人が経営する居酒屋で軽い食事を済ませ、出雲駅に向かった。改札口で父親とお別れし、寝台列車の出雲サンライズに乗車。東京と出雲間を往復するこの寝台列車は、春日には特別な思い出がある。それは、春日が若い頃、飛行機に乗るお金もなく、またイレギュラーな仕事のスケジュールのせいで、なかなかバスの予約がとれなかったとき、一番時間を有効に使うために、使っていたのがこの寝台列車なのだ。早速部屋に入り、荷物を降ろすと、気持ちが少し落ち着いた春日は、窓からさす夕日を浴びながら、ときに涙を流しながら36時間を振り返った。

「なんかオヤジも俺も歳をとったな、っていうのが率直な感想です。昔はすごく前をかっこよく、ささっと歩いていたような記憶があったし、転ぶようなこともなかった。でも今回は『俺が大丈夫?』ってサポートすることが何度かあって。昔はオヤジに包まれて登山したっていう感じがしたけど、今回は、本当に一緒に登ったなというか。それに山頂でのお母さんの話は意外でした。『お母さんがいるから、俺たちは好き勝手できているんだ』って言われて。オヤジは、俺たちを高校を卒業させた後、庭師になったって言っていたんですよ。それが夢だったって。この事実も今日初めて知ったんです。そんな覚悟があったこととか、自分のやりたいこと我慢していたんですね。普通にひとりの男としてかっこいいなって」

毎年、正月や冠婚葬祭のたび、地元には帰るものの、父親と話をする機会がなかった春日。父親の携帯番号すら知らない春日からの連絡は、いつも母親宛てだった。何もこの状態は特別なことではない。父親とのコミュニケーションはいつも母親を介してというのは、この世代によくあることだ。しかし、10年間という時間が産み出した微妙な距離感が、わずか36時間でぐっと縮まった気がした。